松本の地名と商店街の名前の由来
松本市教育委員会では、江戸時代から昭和初期までにあった町名の記憶を残すため、
昭和62年から平成18年にかけて「旧町名標識(旧町名碑)」を130本余り製作し、該当する場所に建てました。
旧町名標識には、江戸時代末期の旧町名については細長い石柱を、
昭和時代初期の旧町名については板状の石材を使用しており、その町名由来も記されています。
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中町城下町親町の一つで、「中町ハ外町之為中故中町ト号ス」(故実伝連記)とあり、善光寺街道の道筋であった。犀川通船開通(天保三年・一八三二年)の頃は、船も遡行していたので、塩・肴問屋が軒を連ねていた。
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国府町明治三十五年に篠ノ井線が開通し、松本駅が松本町の玄関になると、それに相応しい町名として、かつてこの地が信濃国の府中として栄えていたように、松本町の繁栄を願って国府町と命名された。
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六九町城外武家屋敷の一町名。総堀の外側、大手門前から女鳥羽川北側に東西にのびる町であった。「信府統記」には「南門ノ外川端ニ厩ヲ造ル、是ヲ外馬屋ト云、又六九馬屋トモ云、五十四疋立ナルガ故ナリ」と、この町名の由来が述べられている。
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新伊勢町明治三十五年に篠ノ井線が松本まで開通し、松本駅から伊勢町や本町方面につながる通りとして新伊勢町がつくられた。町名は松本駅から伊勢町に通じる新しい町という意味である。
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大名町水野氏時代までは大手南門通りと呼んでいた。女鳥羽川から北側の三の丸は、上級の武士が居住する地域であり、なかでもこの通りの両側は年寄や組頭など高禄の藩士の居住する所だったので、この名がつけられた。
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神明町伊勢町通りの中ほどに神明小路があり、その奥に神明宮が祀られていた。明治三十五年に松本駅が開設され、そこから東へ、市内中心部を結ぶ通りとして神明町がつくられた。町名は神明宮に因む。
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西堀町松本城西側の惣堀の外側南北に置かれた町で、城外屋敷の在った所。町の北端(現:税務署辺り)に西の馬出しが設けられ、不開門(あかずのもん)が在った。
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本町善光寺街道に沿う本町は松本城下の中心「親町三町」の一つで、大手橋(現千歳橋)から袖留橋(現緑橋)までの一丁目から五丁目までをいう。発祥は松本城築城の頃とされ、各種の問屋が軒を連ねる松本城下の荷物の集散地であり、経済の中心であった。
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上土町松本城の東側東門前の馬出し廓の堀の土を上げたところから町名となる。惣堀の外の武家屋敷地。この上土にかつては牢屋もあったと記録されている。
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縄手縄道から転じ縄手となった。縄は「真っすぐ」の意味を持ち、通りの形から町名に。三の丸堀と女鳥羽川との間の道で、松並木の続く縄のような道であったと云う。
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今町今町は、江戸時代中頃に成立したといわれ、白板村に属していた。城下町割の外であったが、松本城下と越後の糸魚川を結ぶ千国道(街道)の起点に近く、その名は「村落なれども現今は町」を意味するという。
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裏小路東町大橋から大手橋(千歳橋)までの女鳥羽川左岸を、中町の裏にあたることから裏小路と呼んだ。天保三年(一八三二)犀川通船の運航により日本海の海産物が運ばれるようになると、道幅一間の通り沿いは魚屋などが軒を並べにぎわった。
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生安寺小路町人町・本町から東へ入る小路名。かつて生安寺(現在は蟻ヶ崎に移転)を見通すことができる小路であったため、この名がついたといわれる。また、三月・五月には節供のひな人形を売る店が軒を連ねたので、ひな小路とも呼ばれた。
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天神小路町人町・本町五丁目から東へ入る一町名。本町から天神の社が見通せるので、天神小路と呼ばれた。なお、ここには小笠原秀政時代に京都右近に模した天神馬場が設けられていた。
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鍋屋小路町人町・飯田町の南端の角から西へ入る小路名。「古実伝連記」には、「鍋屋有之故鍋屋小路」というと、この小路の由来が述べられている。鍋屋とは鍋や釜を作る鋳物師職人の事で、四軒の鋳物師屋があったという。
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博労町博労町は松本城下の南出入り口に位置し、枝町十町の一つで、本町に属していた。本町とは袖留橋(現緑橋)を境とし、南の端には十王堂が置かれていた。古くは貢馬を集めて置いた所で馬町とか馬喰町といわれたが、元禄六年(一六九三)、博労町に改められた。
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分銅町明治三十五年に篠ノ井線が松本まで開通し、松本駅と糸魚川街道の今町に通じる道がつくられた。その開道に功績のあった犬飼久左衛門・同孝吉父子の屋号「分銅屋」に因んで分銅町と付けられた。
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開智町明治五年の学制発布をうけて翌同六年女鳥羽川沿いにあり、廃仏毀釈で廃寺となっていた戸田家の菩提寺全久院の建物を利用して旧開智学校が開校された。明治九年には、この地に文明開化の象徴である擬洋風建築の旧開智学校が建築された。その西側にあった数戸の商家を旧開智学校にちなみ、開智町と称した。
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源地ここは中世のころ、信濃守護小笠原氏の家臣で、号を玄智といった河辺縫殿助の屋敷があった。その屋敷跡に玄智の号に因む「玄智の井戸」があり、「当国第一の名水」として知られていた。歴代の城主は「殊勝の水」として制札を掲げてこれを保護し、藩主の用をはじめ、城下町の飲み水や、酒造用水にも使われていたので、水源という意味も加味して源地とした。